同窓会名: 京都教育大学附属桃山中学校同窓会 |
所在地: 〒612-0071 京都市伏見区桃山井伊掃部東町16 |
FAX番号: 075-611-0371 |
メールアドレス: info@fuzokudosokai.com ★尚、同窓会員のプライベートにかかわる情報提供は出来かねますのでお含み下さい |
母校の京都教育大学附属桃山中学校の現在の教育研究や学校生活などがご覧いただけます。
「近況通信 ~先生からのメッセージ~」の開設
少しずつ暖かくなり春らしさが感じられる頃となりましたが如何お過ごしでしょうか。
同窓会会員におかれましては、時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます
さて、附属桃山中学校同窓会では同期生による横のつながりのみならず、世代を超えた縦のつながりを広げた活動を大切にしていきたいと考えており、ホームページ内容を魅力あるものに刷新させていくことを検討しております。
そこで、従来の事務連絡や業務報告が主体の内容に加えて、『恩師の思い出や近況を紹介する』という企画を検討してきました。中学校時代にお世話になった先生方の思い出話や近況をお伺いすることから、中学校時代を懐かしむとともに、同学年や、場合によっては学年を超えた共通の話題で思わぬつながりが見つかり、楽しく太い輪に広がっていくこともできればと考えております。
皆さまの協力を得て継続して話題提供を行っていきたいと思います。さらに卒業生の方々のコメントも掲載したいと思っています。今後とも宜しくお願いいたします。
2024年4月吉日
同窓会会長 田村 直樹
HP担当理事 奥山 智緒
窓から見える東山のあちこちに、淡い色合いの桜花が点在しています。
拙い近況を綴ります。
退職後の私の日課は、宝ヶ池(周囲1.5キロメートル)一周の早朝速歩。
まだ薄明の4時半頃の出発なので、10人ほど(大半が60~80代の男女)と挨拶をかわします。
そのうちの2人(60代と70代男性)は、人当たりがよく好印象を与える方々。
奇しくも両人ともに、企業や会社の営業部門一筋の人生を歩み、誠実・真摯・行動的の共通点が窺えます。
一方の方とのさりげない会話から、阪神淡路大震災当日、定時に出勤した唯一の社員。当日は売り出しの初日だった由、判明。
どのように人生を歩んできたかが、現在の私の姿・私たちなのですね。
そう思うと怖いような、当然のことのような........。
濱 惠子
1.学習の推移と問題点
1954年4月、学芸大学を卒業して、京都市立中学校に勤めた。当時、社会科学習は、社会の出来事をどれだけ知っているかが主であった。地理の学習も同じで、生徒は「社会科」は暗記する学習と思っていた。
しかし、初任の山科中では、学ぶことの重要性を校長から教えられた。教科の枠を越えて、扇状地の特色や土地利用・砥の粉や下駄の台木などの地場産業・農家の京都市内への振り売りなどの地域産業の学習を取り入れ、社会科と理科の教員が生徒と一緒になって学んだ。山科本願寺や東海道の車石・琵琶湖疎水の学習も深めた。
1960年から月輪中に異動し、生徒指導・補導の校務のかたわら、清水焼・伏見人形・カルタ等の伝統産業や、御寺泉涌寺・東福寺・三十三間堂をはじめとする有名社寺、国立京都博物館の特色と館が果たしている役割を調べて発表させた。それらの学習成果は「学校新聞」や「文集」で家庭にも知らせ、教育系の雑誌に発表したものもある。
2、 学習の課題と明示と学習方法
1966年、京都教育大附属桃山中に転出し、主に社会科地理的分野を担当した。地理学習は自然環境と人間の営みの関係を解明するもので、「何故」という疑問を持つことが重要である。「人間尊重」の立場に立って、地理的なものの見方・考え方を深める学習が重要である。その立場に立った「地理学習のイメージチェンジ」を進める事にした。
研究は一人の力では進まない。同じ考え方を持つ方々との研究が力を発揮する。京都の附属関係者が2名、大阪と奈良女子大附属から1名ずつの4名が、関西の地理学の重鎮・谷岡武雄先生のご指導を受けながら、月一回の研究会を開き、テーマと学習のねらいや方法などを協議して実践した。
その結果は雑誌「地理」に掲載した。さらに仲間を増やす努力も京阪神地方を中心に進めた。1976年4月には、「地理学習のイメージチェンジ」(古今書院)を刊行することができた。さらに、教育関係の出版社から、「社会科の授業実践」の研究や「地理学習の話材」などの分担執筆に参加したりした。
附属中の最後は、学校に設けられた帰国子女学級の運営と研究に加わった。先輩や同僚のご指導とご協力を得ながら勤めた17年であったが、1983年、京都市へ復帰し、1988年、城巽中校長を最後に退職した。
3.退職後の生活
京都学園大・工芸繊維大・龍谷大・文教短大などの大学で、教職関係の講義を担当するが、2000年代、脳梗塞・前立腺がん・複雑骨折などの病と闘いながら、地域の自治連合会や町内会・老人会などの場で、自治活動や社会奉仕の活動・学習労働に参加しているが、91才を越えて、杖を頼りに細々と生き、福祉関係者の世話になっている。
<私の心がけてきたモットー>
・ 継続は力なり ・ 問題の原因追求と対応
・ 共同研究と討議 ・ 成果の発表と交流
・ 一歩後退二歩前進
在職期間1968年4月1日~1981年3月31日
私は、昨年八月九十歳になりました。私の天職は、英語の先生であったと自負しています。教育大学(当時は学芸大学)の英文科で厳しいエドウイン・ペイン先生に導かれ、英語の先生の資格を得ました。卒業して3年後、京都のある私立の高校に奉職していましたが、母校の大学から、大学の、附属桃山中学校に教諭として、呼び戻して頂きました。
転勤したときは、附属桃山中学校は1学年2学級で、50人ずつの生徒で、附属幼稚園から、附属桃山小学校を経て中学校に入ってくる生徒が8割で、附属桃山中学校の難関入試で2割が入っていました。英語の先生は、京都大学出身の2人で、森田時也先生と、吉山勝平先生がおられ、吉山先生の転勤によって、私が奉職することになったのでした。
京都大学は国立一期校で、京都学芸大学は国立2期校です。漏れ聞くところでは、保護者が、私の看板は、一枚落ちたと言われていました。天職だと張り切っている私には、ショックな噂で、何とか見返すことが出来ないかと考えました。
2人の先輩の先生は海外の留学の経験がないので、私はアメリカに留学して面目を保とうと考えました。当時、公立学校で3年以上勤務した英語の先生にアメリカの大学院に、留学の奨学資金を出すという制度がありました。トーフルという留学試験で1,000点中750点以上を取れば一次試験がパス出来るのでした。
附属桃山中学校に転勤して、3年後、トーフルに挑戦しましたが、2年連続750点が取れず、悔しい思いをし、半分諦めかけていました。3年目になってもう一人の森田先生が、転勤され、私と同じ学芸大学の後輩である神崎晃先生が転勤して来られました。彼も公立の学校ですでに3年を経ていましたので、アメリカ留学試験を受ける資格を得ておられました。
神崎先生曰く、「先輩、アメリカ留学は無理なようですね、私が代わりに行かせてもらいますよ。」私はこれを聞いて、発奮しました。何としても3回目の試験を突破しなければ私の面目が立たないと覚悟を決めて、3回目の入試に臨みました。
天が私の思いを認めて下さったのか、何もかもスムーズに受験でき、1次試験も800点を取ることが出来、2次試験/3次試験もパスして、アメリカのハワイ大学院に特別留学生として、奨学金を授与され、当時の文部省の出張扱いで、パスポートを出してもらいました。
私が当校に転職して、7年たっていましたが、昭和42年から43年にかけて、アメリカのハワイ大学院のあった、アメリカ政府の建てたEWC(東西センター)に留学出張することになりました。
長男が3歳で、長女が生まれたばかりという家庭状況でしたが家族や親戚の協力を得て、何とか希望を叶えることが出来ました。学校の方は大変なことになりました。相棒の神崎先生が結婚を機に京都府下の公立高校に転勤されることになり、2人しかいない英語の先生がいなくなってしまうのです。
当時の寺本教頭先生が骨を折って下さって、私の大学の先輩であった大西正宜先生と、講師の隠岐興子先生を迎えることが出来ました。この2人のお陰で、まる1年間アメリカ留学が実現できたのでした。
在職期間1962年4月1日~1979年3月31日